神社の種類



 お伊曾乃さんはタケクニコリワケノミコトで、天神さんは菅原道真、お稲荷さんが商売繁盛なら、えべっさんは笹もってこい

 個人的にはこんな貧相な知識しかありませんでした。

 現在は何かと新規なものがもてはやされ古い伝統あるものが伝承されづらい時代のようです。
 私よりもっと若い世代だと一層その事がはっきりしているのかもしれません。
 そして親から子、子から孫へと伝わっていっていたものが便利で合理的な世の中になって逆に伝わらない・・・
 
 なんて固く書いていますがちょっとした参考になればと色々調べてみました。


資料整理中です


式内社   延喜式

 式内社とは延喜式に記載された神社の事をいいます。
その延喜式とは平安時代半ばの927年に編纂された全50巻からなる律令の補足といったようなものです。
延喜式には東北から九州まで2861の神社が記載されている。つまり延喜式に出ている神社が式内社、出ていない神社が式外社となる。

 尚、『延喜式』の前に『延喜格』があって (伊曾乃神社私的考察) またその前に『弘仁格』と『弘仁式』そして『貞観格』と『貞式』がありました
 「格式がある」という言葉はここから由来してます (あー勉強になる、学生時代より勉強がてら調べています)


国幣大社

  国幣大社、国幣中社、などは明治四年の太政官布告による社格の一つで、国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称することに定められた。そして、官社には官幣中大社・官幣中社・官幣小社・国幣大社・国幣中社・国幣小社の六種、のちの明治六年には官社の中で新しく別格官幣社が加えられた
  この官国幣社という語は、律令時代に始まったものである。祈年祭に当たって神祇官から奉幣される神社を官幣社、国司から奉幣される神社を国幣社と称したのがそれで、両者を併せて官社と呼び、官社は神祇官の神名帳に記載されていた
  敗戦によって現在はこの制度は廃止させられた


県社、郷社、村社

 明治四年の太政官布告による社格の一つで、このとき、国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称することに定められた。諸社には府社・藩社・県社・郷社・村社の五つが設けられた。
 敗戦によって現在はこの制度は廃止させられました


村社
貴船神社
名古屋市名東区

式内県社
式内県社
名古屋市川原神社
本殿

一之宮
     11世紀から12世紀頃に成立したとされる
     律令国家において任命を受けた国司は地方官として赴任国に下向し、 任期中にその国内の全ての諸社を巡拝していたが、 平安末期になると諸社巡拝のためのみに下向するようになる
    短期間の内に国内諸社全ての巡拝は不可能であるし、煩わしさから、 巡拝する神社の数が主だった6〜8社位になり、 巡拝の順序も自ずと決ってきた。 その最初に神拝するところを『一ノ宮』という
    一ノ宮〜六ノ宮まであったとされるが、特に一ノ宮については、 単に社格としての順位を示すだけでなく、 『国鎮守』と呼ばれ国府と密接な関係があったとされる


神宮

  天皇家に関係する神社、伊勢神宮が本社
  伊勢神宮が天照大神、明治神宮が明治天皇、橿原神宮が神武天皇などです
  尚、伊勢神宮と呼ばれていますがこれは通称で正式には伊勢は付かなくてただ『神宮』です


荒神さん 
           「おくどさん」の名前で親しまれている火の神様
           特定の主神があるのでなく火に対する畏れや感謝の念から祭られるようになった
           「おくどさん」(釜戸) としてお祀りするのと荒神さんとして神社になっているものとがある
           瀬戸内地方に集中しており中部以東にはあまり多くない


天神  天満宮
         大宰府天満宮と北野天満宮が本社とされる、社紋は梅鉢
         菅原道真をお祀りしている
         現在では学問の神様として名高いが、非業の死を遂げた道真の怨霊鎮護として造られた神社
         怨霊に対する畏れは日本文化の源となっており、井沢元彦氏他の著書にも詳しいが今後の研究が待たれる
         ちなみに氏の説によると出雲大社は古代日本国家最大級の怨霊鎮護の為の場所であるという
         (主神と随神の位置やしめ縄が内に張ってある・怨霊を出させない役目)


八幡社         大分県の宇佐八幡宮が本社
  全国の神社の3分の1が八幡さんと言われている。応神(おうじん)天皇(誉田川尊:ほんだわけのみこと)と神功(じんぐう)皇后(息長帯姫命:おきながたらしひめのみこと)、そして比売神(ひめがみ)をお祀りしている
  また源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を創建し、源氏の氏神として信仰した、その為武家の守護神として武士の間で崇敬され、各地の武士は領地に八幡さまをお祀りした。 現在では多くの人々からの信仰を集めている
  社紋は三つ巴が多い、石岡神社も石岡八幡の別称がありご承知の通り水引幕等に三つ巴の紋が輝く

城山八幡宮 城山八幡の名前の
元となった末盛城

諏訪神社
          長野県の諏訪大社が本社とされる
          諏訪大社は「お諏訪さま」として全国に知られる。諏訪湖を挟んで南側の守屋山ろくに上社、北側に下社がある。上社は本宮(諏訪市神宮寺)と前宮(茅野市安国寺)、下社は秋宮(下諏訪町上久保)、春宮(同町大門)に分かれている
          祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)。「官幣大社諏訪神社」が終戦後の1948年に諏訪大社と改称した 
          古くから朝廷の崇敬が厚く、691年には持統天皇が勅使を派遣し、国家安泰や五穀豊じょうを祈願したという。「諏訪大明神画詞」(すわだいみょうじんえことば)には征夷大将軍坂上田村麻呂が801年、東征の途中に諏訪神社に立ち寄って東方の平定を祈願したことが記されている

 


稲荷神社       京都の伏見稲荷が本社とされる
 稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(倉稲魂神)で、五穀を始めとして全ての食物をつかさどり、稲の成育を守護する神さまとされる。 稲荷の語源はは、稲成(いねなり)、稲の豊穣を意味することを祈念しているといわれている。 その後商工業が発達するに従って、従来のように農業だけではなく、商売関係の神さまとして崇敬されるようになった。 各地には、多くの稲荷神社があるが、そのほとんどは京都伏見の伏見稲荷大社から分かれたものである
 社紋は稲穂が多い、飯積神社もこの系統であり社紋は稲穂となっている
 追記 愛知県の豊川市にある豊川稲荷は若干変わっており、インドの神様との混交とも言われている


飯積神社稲穂紋

八坂神社
        八坂神社は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)を祀っている
        神話にスサノヲノミコトはヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまとされている
        八坂神社の歴史は、平安建都の約150年前−斉明天皇2年(656)に、スサノヲノミコトの神霊をこの地に祀ったことに始まる
        のちに、神仏混交思想により、スサノヲノミコトは祇園精舎の守護神−牛頭(ごず)天王と一体視された
        都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にある
        八坂神社は明治以前は、「祇園社」「祇園感神院」などと称されたが、神仏分離にともなって、明治4年(1871)「八坂神社」と改称となった



まだ途中です、引き続き『和霊神社』『日吉神社』『白山神社』『三島神社』『厳島神社』他を調べていく予定です


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