西條の人


眞鍋嘉一郎氏から眞鍋かをりさんまで



1 十河信二

2 岡田和一郎



十河 信二 氏      満鉄理事、西條市長、国鉄総裁、   愛媛県民賞、勲一等瑞宝章、西條名誉市民


西条市鷹丸にあった頃の 十河信二像




 これでも簡単な略歴
 明治17年 西暦1884年 新居郡中村上原に生まれる
 明治30年 西暦1897年 旧制松山中学西條分校に入学
 明治35年 西暦1902年 西條中学卒業、旧制第一高等学校入学
 明治38年 西暦1905年 第一高等学校卒業、東京帝国大学入学
 明治40年 西暦1907年 結婚
 明治42年 西暦1909年 東京帝国大学卒業、鉄道院(のちの鉄道省)に採用される
 明治44年 西暦1911年 近衛歩兵連隊へ入営
 明治45年 西暦1912年 満期除隊、鉄道院復職
 大正 2年 西暦1913年 育英施設西條学舎発足、舎監となる(現在の財団法人東予育英会東予学舎)
 大正 6年 西暦1917年 アメリカ留学
 大正 7年 西暦1918年 帰国
 大正10年 西暦1921年 鉄道が伊豫西條まで開業
 大正15年 西暦1926年 東京地方裁判所検事局に逮捕される
 昭和 2年 西暦1927年 一審判決で有罪
 昭和 4年 西暦1929年 控訴審で無罪判決
 昭和 5年 西暦1930年 南満州鐵道理事に就任
 昭和 9年 西暦1934年 満鉄退任
 昭和10年 西暦1935年 興中公司社長に就任
 昭和12年 西暦1937年 林銑十郎内閣の組閣参謀長就任
 昭和13年 西暦1938年 興中公司社長辞任、
 昭和14年 西暦1939年 帝國鐵道協会理事
 昭和15年 西暦1940年 學生義勇軍会長
 昭和20年 西暦1945年 西條市長就任
 昭和21年 西暦1946年 鉄道弘済会会長就任、西條市長辞任
 昭和23年 西暦1947年 日本交通協会理事
 昭和23年 西暦1948年 鉄道弘済会会長辞任
 昭和30年 西暦1955年 日本国有鉄道総裁就任
 昭和34年 西暦1959年 国鉄総裁再任、(母校西条高校が夏の全国甲子園野球大会で全国優勝)
 昭和38年 西暦1963年 任期満了により国鉄総裁辞任、日本交通協会会長就任、愛媛県民賞受賞
 昭和39年 西暦1964年 東海道新幹線開業、東京オリンピック開催、勲一等瑞宝章授賞
 昭和44年 西暦1969年 西條市初の名誉市民になる
 昭和56年 西暦1981年 永眠 享年97歳



十河さんについて
 十河信二さんがいなければ新幹線どころか、世界の鉄道も今のような高速化はされず斜陽産業だっただろう。そしてそういった事は少しネットや書籍で調べれば色々な人が賞賛しているので簡単に分かる。
ここでは鉄道や新幹線開業については必要最小限に留め、故郷西條と十河さんとの話をしてみたい。むろんこれは決して氏の業績を軽んじているのではなく、そうしないと枚挙にいとまないほど活動的な人生だからである。

 十河信二さんは上記略歴で記したように新居郡中村で生まれた。現在は合併されて新居浜市中萩となっているが、中萩はもともと西條藩中村と小松藩萩生が合併して出来た村で、地名も両者から合わせて造られている。氏の感覚からも新居浜の出身というより中村、そして西條の出身という気持ちが強かったように思われる。
 旧制中学進学においては丁度開校したばかりの松山中学西條分校に中村から徒歩で通った。まだ当時は鉄道は通っていなくて片道20キロ近い距離を毎日徒歩で往復した。大町村(当時はまだ神拝・大町・玉津は合併前)の川原町には親類が旅館をやっており、そこの一室に下宿していた事もあったようだ。
 西條分校は在学中に西條中学になる。在校中のエピソードとして授業をストライキして喜多濱で相撲を取ったり、それを叱りに来た教師まで無理やり引っ張り込んで相撲をさせたりした。また抜き打ちテストを行おうとする教師に異議を唱える生徒が多い中「先生、私はいっこうに構いません」と言い放ち他の生徒と八千代巷で決闘寸前になったこともあった。
 学校の校内誌に度々投稿もした。但し掲載されることは少なく不満に思い教師に議論をふっかけた。そういったことも重なって卒業の際には校長から「お前のようにわがままで強情な人間はいない。学校だからよかったようなものの世の中へ出たらそれでは通らないから気をつけるように」と言われた。

 明治35年に西條中学を卒業、第二回卒業生で皆で35人であった。ちなみに第一回卒業生はいない。卒業の時の教師への謝恩会を下町の光明寺で行った。氏は酒はほとんど飲めないと言われているが当時を含めて若い頃はかなり酒が飲めたようである。
 同年第一高等学校へ進学、現在の東京大学である。旧制高校は全寮制が基本となっていて四人部屋であった。そして隣の部屋には藤村操がいた。藤村操は翌年の5月22日に日光華厳の滝から「巌頭之感」という詩を残し投身自殺する。
 東京で頼ったのは愛媛出身で医者の岩井禎三氏である。その岩井氏の親戚で松山中学を同じ年に卒業した安倍能成氏がやはり一高に進学していた。十河さんと安倍氏との友情は昭和41年に安倍氏が亡くなるまで続く。そして安倍氏は前述の藤村操の妹を夫人として迎えることになる。安倍氏はのちに一高校長や文部大臣、学習院大学院長になる。安倍氏が亡くなった後で母校の松山北高校に銅像が建てられたが、その除幕式には80台の高齢を押して十河さんが出席している。
 一高の英語教師は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)や夏目漱石が担当していた。のちに氏はアメリカに留学するがハーンや漱石から学んだ英語をもってニューヨークへ行ったのである。

 明治38年に一高を卒業し東京帝國大学政治学科入学する。本当は文学が希望であったが父や兄からの要望で法科の政治学科へ進学、当時の法科の教授には美濃部達吉新渡戸稲造がいた。明治40年に岡崎キクと結婚する、キクの父親の実兄は清水の次郎長一家の大政だった。大正時代に十河さんの三男である林三は大政大五郎の膝に乗り昔話をよく聞かせてもらったそうである。結婚はどうも恋愛結婚だったようで当時としてはとても珍しいケースのようだ。結婚自体は学生であっても成人すれば普通のことであった。

 大正15年1月26日突然十河さんは東京地方裁判所検事局に召喚、そして逮捕されてしまう。全く無実の罪で権力抗争で鐵道省と政治とを巻き込んだ陰謀に陥れられた。昭和4年に無罪判決が下されるが順風満帆で来ていた人生で苦難と挫折感を味わった四年間となった。

 昭和20年6月20日に豫讃本線八幡濱〜卯之町間が開業した。時は戦争末期で開業式に行ける人間がいないということで愛媛出身の十河さんが選ばれ記念行事に出席する。その帰りに西條市吉原のあづま旅館に立ち寄る。その際に地元から請われて西條市長となる。西條市は市制四年で初代市長の交代時期でもあったようだ。また当時の市長の選び方は現在のような投票による公選制ではなく推薦制であった。
 十河さんは市長を受諾する条件として「ふるさと西條の為に行うのであるから報酬は一切受け取らない」「日本国が自分を必要とすれば残念ながら市長をやめる」「自分が市長として行うことについて不満が出てくるようであればやめる」ということを条件に市長を引き受けた。
 市長どころか総理大臣になってもおかしくない(事実そのような話があった)人物が西條の市長となり、直後に大東亜戦争の降伏が決まった混乱の時代にあって氏は港新地の干拓計画や産業道路予土線、農工学校の設立、市内小中学校校長との戦後の教育方針への指導と次々と手腕を発揮した。

 昭和30年に国鉄総裁に就任。当時の国鉄は洞爺丸事故、紫雲丸事故など大事故が立て続けで発生し一方で労使紛争も激しく総裁のなり手がいない状態だった。同じ四国出身の三木武吉に「卑怯者よばわりされたいのか」という言葉で職に就く決意を固める。
 就任会見では「レールを枕に討ち死にする覚悟で」と発言し、また新聞に叩かれてしまう。
 しかしそれからの八面六臂の活躍は素晴らしく戦時中の夢のような計画であった弾丸列車を東海道新幹線として遂に実現させる。今でこそ高速鉄道が当たり前の世の中だが、当時は戦艦大和並みの愚挙と非難のほうが多かった。二期八年を勤めて新幹線の試験運転も順調な中で総裁を終える。ただ次期総裁は新幹線反対派だったため引継ぎの際には嫌味を言われ、なおかつその開業式には呼ばれもしなかった。胸中さぞや無念であっただろう。

 昭和44年9月22日に西條市初の名誉市民となり大町鷹丸の市民公園に胸像が建てられる。11月3日の顕彰式に来西し出席する。
 昭和56年10月3日肺炎のため逝去、享年97歳と7ヶ月だった。





 十河さんを記念して伊予西条駅近くに十河氏記念交通公園を造る計画があり、氏が実現させた東海道新幹線の0系(開通当時の形式の車両)が香川県まで来て保管されています。 (他にも誘致候補があり西条に来るかどうかは未定)
 十河さんの功績をたたえ、郷土の後輩たちにその足跡を何時までも見守ってもらう為にも早期の公園設立を希望します。




後記

  平成18年に伊予西条駅東に記念館の着工が始まりました。喜ばしい限りです。名称が仮称で四国鉄道博物館だそうですが、十河信二記念鉄道博物館のような名称として欲しいと思います。
 というのも、日本や欧米には鉄道ファンが少なからずいて、わざわざ外国の鉄道に乗りに行ったり、記念館に訪れるケースは普通によくあることです。
 ただの四国鉄道記念館として小さくまとめてしまうのではなく、現在世界の高速鉄道の礎にもなった氏の業績を内外の鉄道ファンに知らしめる事により、郷里の偉大な先輩への更なる再評価にも結びつくと思います。

 例えば展示の一案として、平成16年にテレビ東京系列で放映された「新幹線を作った男たち」といういい番組があります。この番組のDVDを記念館の中で時間を決めて流すことなどはどうでしょう。叶うのであれば、はまり役の三國連太郎さんにお願いして、ドラマには入りきれなかった故郷西條との係わりなどのシーン(市長就任や名誉市民になって人力車でお練りをする)を追加して撮影できればどんなに素晴らしいものになるでしょう。

 堀の内にある郷土記念館の氏の紹介には間違いがみられます。
明治17年新居浜市中村出身と出ていますが、明治17年には新居浜はまだ市制を敷いてなく、中村は新居浜ですらなく新居郡の中の中村で氏の感覚としては新居郡の西條出身という気持ちが強かったと思われます。
 
 そして鷹丸にある氏の胸像は、周りが荒れ果てていてゴミが散乱し整備がほとんどされていない状態です。
 また地元西条の小学中学校ではあまり氏の業績に触れることもないようです。氏に限らず眞鍋嘉一郎氏や大関朝潮についてもう少し子供たちに知ってもらいたいと思います。





更に後記

 平成21年10月、十河さんの記念館を見学することが叶いました。

     


   


H23/7/5  更に後記   郷里の偉人十河さんの書を入手しました。自宅に飾っていますが、それだけではもったいないのでウェブ画像で公開します





 雲天風義久而弥新


 読み  雲天風の義なること久しくして、いよいよ新たなり

 意味   雲や天、そして風という万物は理にかなった法則で動いており、それはまた永遠であって今後も益々永遠に続いていくであろう

 更に解釈すると  人生や世の中はままならないこともあったりもするが、正しいことをしていけばきっと報われる そう考えようよ


    義山は十河先生の書を書くとき、揮毫する際の号


           意味と解釈は管理人の不二です



 老鶯の 鳴く音渡るや 山の湖


 読み  老鶯(ろうおう)の 鳴く音(こえ)渡るや 山の湖(うみ)

 意味   ウグイスの鳴く声が山の湖に響き渡っていて、夏真っ盛りだよなぁ

       (老鶯は夏の季語で老いたウグイスではなく、春に鳴くウグイスが夏になっても鳴いていること)


       春雷子は十河先生の俳句の号です





予定

岡田 和一郎 氏      日本耳鼻咽喉学の祖、初代東京帝国大学耳鼻咽喉科正教授










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